REPORT

【Vol.38】西から吹いた強い風|服部レポート

【Vol.38】西から吹いた強い風|服部レポート

服部 彰浩ー 2021年10月4日。X上にとある呟きがポストされた。 『この度、私服部は 「だいにぐるーぷ」に所属することになりました。彼らの目指す夢や目標の後押しをチートレベルでサポートしていきたいと思います』 多くのだいにぐるーぷファンからは驚きと戸惑いの声が上がった。「なんで?」「だいにぐるーぷに?」「そもそもこの人は誰?」 こうして津田沼の幼馴染集団の中に、たった1人で三重県からやってきた服部彰浩という男は、宣言通りにだいにぐるーぷをチートレベルでサポートした。近年のだいにぐるーぷの目覚ましい成長と活躍は服部なしでは考えられなかっただろう。 服部の笑いのセンス、冷静で俯瞰的な眼差し、そしてどんな時でも嘘をつかない直截的な物言いは、最初は戸惑っていたたくさんの視聴者を強く魅了しながらも、時には物議をかもすこともあった。まさに嵐のような男であった。 そして3年後の2024年11月。彼はこう宣言した。『僕は2025年 自身の成長と新たな挑戦のため、だいにぐるーぷを少しだけ離れる決断をしました』。 風のように現れ、だいにぐるーぷの背中を押し、新たな風を巻き起こし、時に嵐を呼んだ服部は、何を考えてどこに向かうのか。 だいにぐるーぷ随一の「語りたがらない男」が、ここだけの胸の内を明かしてくれた。 ー服部さんが三重県から上京して、千葉で活動している「だいにぐるーぷ」に加入することになったきっかけを教えてください。 服部:最初に僕のYouTubeチャンネルの登録者が100人も行くのか行かないかぐらいのときに、Twitterで飯野がツイートしてくれたっていうのがだいにぐるーぷに近づけた機会です。 服部:そもそも自分が化学会社を辞めて東京で何かしたいなと漠然と思ってたんですよ。そんな中、リスペクトしていただいにぐるーぷにツイートしてもらって、そこからDMでやり取りをして、サブチャンネルのアートワークとかを頼まれるようになって。服部:それから少し経って僕から「スタジオに1週間だけ行って社会勉強させてほしい」って岩田に連絡して、そこからだいにぐるーぷに誘ってもらい、入ることになりました。 ーだいにぐるーぷのアートワーク(デザイン)を手掛ける上でこだわっていることは何ですか? 服部:テレビとYouTubeの間のデザインを目指してます。テレビを真似しちゃうともちろんテレビになっちゃうし、ネット配信番組みたいななんかちょっとコテコテの感じにしちゃうと視聴者がやっぱりどうしても離れちゃうし、よくいるYouTuberみたいにダサくはしたくないし… 服部:よくYouTuberが制作会社にお金を出して、クオリティ高い動画を 月に1本配信したりするじゃないですか。それを見てもやっぱり再生数ってあんまり良くないし、再生維持率もそんなに良くない。コテコテ&小奇麗なものじゃなくて、YouTuberっぽいんだけど、奇麗でシンプルめなテロップっていうのは意識してます。 服部の初アートワークがサブに採用された時の動画 ー3年間のだいにぐるーぷの活動の中で一番楽しかったことは何ですか? 服部:野球ですかね。初めて試合をしたときは負けたんですけど、その日の「やっと野球ができた!」っていう喜びとかが溢れて、みんな楽しんでたんですよ。打ち上げで、田上さんっていう元プロ野球選手とまさか自分が飲めるなんて思わなかったし。 津田ロッテ初の試合動画 服部:その時の居酒屋のビールがキンキンに冷えてて、めっちゃうまかったんですよ。あの日はやっぱり楽しかったですね。ずっとサブチャンネルで津田ロッテを追ってたマニアとして自分が参加できる事と津田ロッテの貴重な一戦目に関われたのはほんとに嬉しかったです。 服部:あと2024年の有観客の野球イベントも楽しかったですね。「PEDRO逃亡」も同時並行で行ってたので大変でしたけど(笑)。2025年に行う有観客野球イベントはたぶん逃亡期間中ではないので、来場する皆さんを喜ばせる仕組みや対戦相手を用意できると思うので、それも楽しみにしてほしいですね。 津田ロッテ初めての有観客試合動画 ー逆に3年間で一番辛かったことは何ですか? 服部:なんだかんだで編集は辛いですね。特に去年の「REBORN」は辛かったですね。時間もなかったし、僕と土井谷の飯野の3人だけでほぼほぼ作ったので。 アメリカ最恐の心霊スポットで1週間生活してみた 服部:あと、メンバーシップ感謝祭2024も辛かったですね。当日は勿論楽しかったんですけど、準備だったりとかでもう寝れなかったですね。イベント当日の朝の5時まで作業やってたんで。 服部:あとは感謝祭当日に入れなかった人がいるのが本当に辛くて…、やっぱり視聴者目線で考えるとわざわざ来たのに入れないとか、並んではいけないとか、思い出すと本当に辛いなって感じですね。 2024年2月18日に開催された『感謝祭』...

【Vol.38】西から吹いた強い風|服部レポート

服部 彰浩ー 2021年10月4日。X上にとある呟きがポストされた。 『この度、私服部は 「だいにぐるーぷ」に所属することになりました。彼らの目指す夢や目標の後押しをチートレベルでサポートしていきたいと思います』 多くのだいにぐるーぷファンからは驚きと戸惑いの声が上がった。「なんで?」「だいにぐるーぷに?」「そもそもこの人は誰?」 こうして津田沼の幼馴染集団の中に、たった1人で三重県からやってきた服部彰浩という男は、宣言通りにだいにぐるーぷをチートレベルでサポートした。近年のだいにぐるーぷの目覚ましい成長と活躍は服部なしでは考えられなかっただろう。 服部の笑いのセンス、冷静で俯瞰的な眼差し、そしてどんな時でも嘘をつかない直截的な物言いは、最初は戸惑っていたたくさんの視聴者を強く魅了しながらも、時には物議をかもすこともあった。まさに嵐のような男であった。 そして3年後の2024年11月。彼はこう宣言した。『僕は2025年 自身の成長と新たな挑戦のため、だいにぐるーぷを少しだけ離れる決断をしました』。 風のように現れ、だいにぐるーぷの背中を押し、新たな風を巻き起こし、時に嵐を呼んだ服部は、何を考えてどこに向かうのか。 だいにぐるーぷ随一の「語りたがらない男」が、ここだけの胸の内を明かしてくれた。 ー服部さんが三重県から上京して、千葉で活動している「だいにぐるーぷ」に加入することになったきっかけを教えてください。 服部:最初に僕のYouTubeチャンネルの登録者が100人も行くのか行かないかぐらいのときに、Twitterで飯野がツイートしてくれたっていうのがだいにぐるーぷに近づけた機会です。 服部:そもそも自分が化学会社を辞めて東京で何かしたいなと漠然と思ってたんですよ。そんな中、リスペクトしていただいにぐるーぷにツイートしてもらって、そこからDMでやり取りをして、サブチャンネルのアートワークとかを頼まれるようになって。服部:それから少し経って僕から「スタジオに1週間だけ行って社会勉強させてほしい」って岩田に連絡して、そこからだいにぐるーぷに誘ってもらい、入ることになりました。 ーだいにぐるーぷのアートワーク(デザイン)を手掛ける上でこだわっていることは何ですか? 服部:テレビとYouTubeの間のデザインを目指してます。テレビを真似しちゃうともちろんテレビになっちゃうし、ネット配信番組みたいななんかちょっとコテコテの感じにしちゃうと視聴者がやっぱりどうしても離れちゃうし、よくいるYouTuberみたいにダサくはしたくないし… 服部:よくYouTuberが制作会社にお金を出して、クオリティ高い動画を 月に1本配信したりするじゃないですか。それを見てもやっぱり再生数ってあんまり良くないし、再生維持率もそんなに良くない。コテコテ&小奇麗なものじゃなくて、YouTuberっぽいんだけど、奇麗でシンプルめなテロップっていうのは意識してます。 服部の初アートワークがサブに採用された時の動画 ー3年間のだいにぐるーぷの活動の中で一番楽しかったことは何ですか? 服部:野球ですかね。初めて試合をしたときは負けたんですけど、その日の「やっと野球ができた!」っていう喜びとかが溢れて、みんな楽しんでたんですよ。打ち上げで、田上さんっていう元プロ野球選手とまさか自分が飲めるなんて思わなかったし。 津田ロッテ初の試合動画 服部:その時の居酒屋のビールがキンキンに冷えてて、めっちゃうまかったんですよ。あの日はやっぱり楽しかったですね。ずっとサブチャンネルで津田ロッテを追ってたマニアとして自分が参加できる事と津田ロッテの貴重な一戦目に関われたのはほんとに嬉しかったです。 服部:あと2024年の有観客の野球イベントも楽しかったですね。「PEDRO逃亡」も同時並行で行ってたので大変でしたけど(笑)。2025年に行う有観客野球イベントはたぶん逃亡期間中ではないので、来場する皆さんを喜ばせる仕組みや対戦相手を用意できると思うので、それも楽しみにしてほしいですね。 津田ロッテ初めての有観客試合動画 ー逆に3年間で一番辛かったことは何ですか? 服部:なんだかんだで編集は辛いですね。特に去年の「REBORN」は辛かったですね。時間もなかったし、僕と土井谷の飯野の3人だけでほぼほぼ作ったので。 アメリカ最恐の心霊スポットで1週間生活してみた 服部:あと、メンバーシップ感謝祭2024も辛かったですね。当日は勿論楽しかったんですけど、準備だったりとかでもう寝れなかったですね。イベント当日の朝の5時まで作業やってたんで。 服部:あとは感謝祭当日に入れなかった人がいるのが本当に辛くて…、やっぱり視聴者目線で考えるとわざわざ来たのに入れないとか、並んではいけないとか、思い出すと本当に辛いなって感じですね。 2024年2月18日に開催された『感謝祭』...

【Vol.37】土井谷と白セレナの思い出|土井谷レポート

【Vol.37】土井谷と白セレナの思い出|土井谷レポート

土井谷の白セレナー だいにぐるーぷにとっての”ゴーイングメリー号”と言える土井谷の白セレナ。 ここまでどの撮影においても移動手段や運搬手段としてぐるーぷや土井谷を支えてきた白セレナだが、2024年の11月にぐるーぷの社用車としてハイエースが納車されたことでその役目に終止符を打った。まさにメリー号とサニー号の世代交代である。 今回、所有者である土井谷に納車されてから2024年末まで公私共に彼を支えた白セレナとの思い出を振り返ってもらった。 白セレナ年表 ーまずは白セレナを手に入れた経緯をお願いします。 土井谷:津田沼逃亡の後くらいにおじいちゃんに買ってもらいましたね。車種については当時色々案はあったんですけど、とにかく岩田の黒セレナに乗ってて荷物が積める系の車がぐるーぷ的にもいいかなと思って。 土井谷:あとは、うちの実家が自営業で荷物が意外と多いので、それも加味してセレナにしました。 ー白セレナの初稼働の思い出を教えてください。 土井谷:”無人島からの脱出”の撮影ですね。あれが12月から2月あたりの寒い時期で、まず備品を積んで僕が運転して、助手席と後ろに3人乗って岡山まで向かったのが最初の撮影とか長距離移動の思い出です。 土井谷:20時くらいに都内を出発して朝着くみたいな感じで、一晩中走ってその日に撮影が始まるって感じでした。 土井谷:結構な距離、東京から兵庫くらいまで僕が運転した気がします。免許も当時僕と岩田しか持っていなくて、明け方くらいから岩田と代わって車内で寝て起きたら着いていましたね。 ーかなりハードな初陣だったんですね。帰りも同じ感じですか? 土井谷:帰りはもっとやばくて、撮影が終わったのが昼過ぎくらいで後片付けもちょっとゴタついちゃって。 土井谷:当時ぐるーぷに現金がなかったから宿代がないってなってなんとかかき集めて、無人島からの脱出の後に宿からの脱出が始まったんですよ。それで、21時くらいに全部片付いて、寝る間もなく東京に戻ったあの時は大変でしたね。 撮影後、片付けが終わり白セレナで帰る前に撮った集合写真 土井谷:撮影の疲れと宿からの脱出ので結構消耗していたので、途中で限界を感じたんですよ。なので途中のパーキングエリアでちょっと寝て、こっちに帰って来れたのは昼過ぎでした。今思うとあの長距離をよく僕と岩田で回したなと思います。 第1弾 無人島脱出後の白セレナ年表 ーかなりの極限状態だったんですね。 土井谷:極限状態でいうなら”無人島バトルロワイヤル”もやばかったです。サブチャンネルでも動画が上がっているんですけど、2日かけて長崎に向かいました。後にも先にもこれが最長移動距離ですね。 土井谷:あれはまじでやばかったです。行きは動画があったから覚えているけど、帰りに関しては本当に帰ってきたのかって思うくらい何も覚えていないです(笑) 無人島バトルロワイヤルに行く道中の一部始終 ー相当ハードだったんですね。過去のサブチャンネルでは事故や事件についての動画もありましたね。 土井谷:僕が事故ってバンパーが外れちゃったのと、その翌年の”無人島からの脱出2”の撮影に向かう途中のタイヤ事件ですね。 バンパーが外れてそのままサブで動画化 パンクした時の写真 土井谷:外装はそこからめちゃくちゃ壊れやすくなってきました。今回白セレナが持っていかれる時も見たらやっぱりちょっと、事故で外れた部分はちゃんとはくっついていないんですよね。 土井谷:タイヤ事件に関しては夜中じゃなかったら事故になっていた可能性もありますし、ちょっとゾッとしましたね。 バンパー破損とタイヤ破裂に近い時期の白セレナの年表...

【Vol.37】土井谷と白セレナの思い出|土井谷レポート

土井谷の白セレナー だいにぐるーぷにとっての”ゴーイングメリー号”と言える土井谷の白セレナ。 ここまでどの撮影においても移動手段や運搬手段としてぐるーぷや土井谷を支えてきた白セレナだが、2024年の11月にぐるーぷの社用車としてハイエースが納車されたことでその役目に終止符を打った。まさにメリー号とサニー号の世代交代である。 今回、所有者である土井谷に納車されてから2024年末まで公私共に彼を支えた白セレナとの思い出を振り返ってもらった。 白セレナ年表 ーまずは白セレナを手に入れた経緯をお願いします。 土井谷:津田沼逃亡の後くらいにおじいちゃんに買ってもらいましたね。車種については当時色々案はあったんですけど、とにかく岩田の黒セレナに乗ってて荷物が積める系の車がぐるーぷ的にもいいかなと思って。 土井谷:あとは、うちの実家が自営業で荷物が意外と多いので、それも加味してセレナにしました。 ー白セレナの初稼働の思い出を教えてください。 土井谷:”無人島からの脱出”の撮影ですね。あれが12月から2月あたりの寒い時期で、まず備品を積んで僕が運転して、助手席と後ろに3人乗って岡山まで向かったのが最初の撮影とか長距離移動の思い出です。 土井谷:20時くらいに都内を出発して朝着くみたいな感じで、一晩中走ってその日に撮影が始まるって感じでした。 土井谷:結構な距離、東京から兵庫くらいまで僕が運転した気がします。免許も当時僕と岩田しか持っていなくて、明け方くらいから岩田と代わって車内で寝て起きたら着いていましたね。 ーかなりハードな初陣だったんですね。帰りも同じ感じですか? 土井谷:帰りはもっとやばくて、撮影が終わったのが昼過ぎくらいで後片付けもちょっとゴタついちゃって。 土井谷:当時ぐるーぷに現金がなかったから宿代がないってなってなんとかかき集めて、無人島からの脱出の後に宿からの脱出が始まったんですよ。それで、21時くらいに全部片付いて、寝る間もなく東京に戻ったあの時は大変でしたね。 撮影後、片付けが終わり白セレナで帰る前に撮った集合写真 土井谷:撮影の疲れと宿からの脱出ので結構消耗していたので、途中で限界を感じたんですよ。なので途中のパーキングエリアでちょっと寝て、こっちに帰って来れたのは昼過ぎでした。今思うとあの長距離をよく僕と岩田で回したなと思います。 第1弾 無人島脱出後の白セレナ年表 ーかなりの極限状態だったんですね。 土井谷:極限状態でいうなら”無人島バトルロワイヤル”もやばかったです。サブチャンネルでも動画が上がっているんですけど、2日かけて長崎に向かいました。後にも先にもこれが最長移動距離ですね。 土井谷:あれはまじでやばかったです。行きは動画があったから覚えているけど、帰りに関しては本当に帰ってきたのかって思うくらい何も覚えていないです(笑) 無人島バトルロワイヤルに行く道中の一部始終 ー相当ハードだったんですね。過去のサブチャンネルでは事故や事件についての動画もありましたね。 土井谷:僕が事故ってバンパーが外れちゃったのと、その翌年の”無人島からの脱出2”の撮影に向かう途中のタイヤ事件ですね。 バンパーが外れてそのままサブで動画化 パンクした時の写真 土井谷:外装はそこからめちゃくちゃ壊れやすくなってきました。今回白セレナが持っていかれる時も見たらやっぱりちょっと、事故で外れた部分はちゃんとはくっついていないんですよね。 土井谷:タイヤ事件に関しては夜中じゃなかったら事故になっていた可能性もありますし、ちょっとゾッとしましたね。 バンパー破損とタイヤ破裂に近い時期の白セレナの年表...

【Vol.36】27歳を迎えた西尾 知之|誕生日レポート

【Vol.36】27歳を迎えた西尾 知之|誕生日レポート

西尾知之生誕ー ”27歳症候群”という言葉を知っているだろうか。 社会人として慣れが見えてくる27歳。転職や結婚・出産など生活環境が変わる人も多いだろう。そんな社会人としての過渡期への戸惑いや葛藤を端的に表現したものだ。 だいにぐるーぷでもこの27歳は1つの節目に感じていたのか、2024年の新年会でも”27歳問題”として語られていた。 限定動画 Vol.244|新年会 27歳問題 2025年1月31日に27歳を迎えた西尾知之は、この27歳という時期を一番脂が乗るタイミングであると前向きに捉えている。彼は「脂が乗る時期に向けての土台作りができた」と自他ともに認める大きな変化のあった26歳を振り返った。 実際にぐるーぷ初の試みである感謝祭から始まり、果てはぐるーぷの目標として掲げられていたNetflixとのタイアップしたイベントまで、その変化量はファンからも見てとれるだろう。 怒涛の1年の中に手応えと充実感を感じた彼が、だいにぐるーぷと「西尾知之」のこれからについて率直に語ってくれた。 1998年1月31日生まれ 西尾 知之 ー27歳を迎えた今の心境を教えてください。 西尾:ついにこの年になったのか、というのが率直な感想ですね。僕らの中でよく27歳問題って言ってたんですけど、27歳って一番脂の乗る時期だなって思っているんです。 西尾:というのも、King Gnuさんが「白日」とかで世に出始めたタイミングが27歳だったんですよ。当時22歳か23歳とかでそれを見てて「やっぱ27、28が一番脂乗る時期だな」みたいな話をしてたんです。そこまでにKing Gnuさんみたいに世間にインパクトを残せるような状態になっているかなって。 西尾:というように思っていたのですが、今年ついに27歳を迎えてしまったので、ちゃんとギアをもっと上げないとなと思ってはいます。まあ、去年もギアはパンパンだったんですけど(笑) ーとてつもなく忙しい26歳を過ごしたと思うのですが、振り返ってみていかがですか? 西尾:いやあ、過去イチ働いたかもしれないです。 西尾:去年の26歳は、世間一般の26歳の方と比べた時に、絶対に周りとは違うレベルで働いていた自信があります。やっぱり27歳手前を意識していたので、自分なりにちゃんと限界値まで出せるような動き方をしていました。 2024年に5月にサブで投稿された、「家に帰らず仕事漬けの西尾に1週間密着してみた」 ー脂の乗る27歳に向けて下地を整えられた感じですか? 西尾:そうなんです。年々だいにぐるーぷが大きくなっていくのは実感するんですけど、去年は今年に向けてちゃんとした準備ができた年だったなと思います。西尾:具体的な事で言うと、今年3月に開かれる感謝祭は去年の9月から準備していましたね。 3.15土・3.16日に開催する感謝祭 西尾:なので、今年はどの分野でもそうですけど、どれくらいギアを変えられるかってところですね。 ーだいにぐるーぷとしても新たにクリエイティブ人材を募集していましたね。これもギアをより上げるための変化でしょうか? 西尾:去年まではだいにぐるーぷっていう10人規模でやっていて、これがマックスで動いた時の限界値だねっていうのは岩田が語っていました。そこでさらにギアを変えられるとしたら、やっぱりメイン作品という映像の部分になりますね。 西尾:なので年末年始で募集したクリエイティブの皆さんとか、他にもいろんな人に入ってもらった上でより良いものを作りたいと思っています。 去年12月にメインチャンネルで投稿された「映像制作のクリエイティブ人材を募集します」...

【Vol.36】27歳を迎えた西尾 知之|誕生日レポート

西尾知之生誕ー ”27歳症候群”という言葉を知っているだろうか。 社会人として慣れが見えてくる27歳。転職や結婚・出産など生活環境が変わる人も多いだろう。そんな社会人としての過渡期への戸惑いや葛藤を端的に表現したものだ。 だいにぐるーぷでもこの27歳は1つの節目に感じていたのか、2024年の新年会でも”27歳問題”として語られていた。 限定動画 Vol.244|新年会 27歳問題 2025年1月31日に27歳を迎えた西尾知之は、この27歳という時期を一番脂が乗るタイミングであると前向きに捉えている。彼は「脂が乗る時期に向けての土台作りができた」と自他ともに認める大きな変化のあった26歳を振り返った。 実際にぐるーぷ初の試みである感謝祭から始まり、果てはぐるーぷの目標として掲げられていたNetflixとのタイアップしたイベントまで、その変化量はファンからも見てとれるだろう。 怒涛の1年の中に手応えと充実感を感じた彼が、だいにぐるーぷと「西尾知之」のこれからについて率直に語ってくれた。 1998年1月31日生まれ 西尾 知之 ー27歳を迎えた今の心境を教えてください。 西尾:ついにこの年になったのか、というのが率直な感想ですね。僕らの中でよく27歳問題って言ってたんですけど、27歳って一番脂の乗る時期だなって思っているんです。 西尾:というのも、King Gnuさんが「白日」とかで世に出始めたタイミングが27歳だったんですよ。当時22歳か23歳とかでそれを見てて「やっぱ27、28が一番脂乗る時期だな」みたいな話をしてたんです。そこまでにKing Gnuさんみたいに世間にインパクトを残せるような状態になっているかなって。 西尾:というように思っていたのですが、今年ついに27歳を迎えてしまったので、ちゃんとギアをもっと上げないとなと思ってはいます。まあ、去年もギアはパンパンだったんですけど(笑) ーとてつもなく忙しい26歳を過ごしたと思うのですが、振り返ってみていかがですか? 西尾:いやあ、過去イチ働いたかもしれないです。 西尾:去年の26歳は、世間一般の26歳の方と比べた時に、絶対に周りとは違うレベルで働いていた自信があります。やっぱり27歳手前を意識していたので、自分なりにちゃんと限界値まで出せるような動き方をしていました。 2024年に5月にサブで投稿された、「家に帰らず仕事漬けの西尾に1週間密着してみた」 ー脂の乗る27歳に向けて下地を整えられた感じですか? 西尾:そうなんです。年々だいにぐるーぷが大きくなっていくのは実感するんですけど、去年は今年に向けてちゃんとした準備ができた年だったなと思います。西尾:具体的な事で言うと、今年3月に開かれる感謝祭は去年の9月から準備していましたね。 3.15土・3.16日に開催する感謝祭 西尾:なので、今年はどの分野でもそうですけど、どれくらいギアを変えられるかってところですね。 ーだいにぐるーぷとしても新たにクリエイティブ人材を募集していましたね。これもギアをより上げるための変化でしょうか? 西尾:去年まではだいにぐるーぷっていう10人規模でやっていて、これがマックスで動いた時の限界値だねっていうのは岩田が語っていました。そこでさらにギアを変えられるとしたら、やっぱりメイン作品という映像の部分になりますね。 西尾:なので年末年始で募集したクリエイティブの皆さんとか、他にもいろんな人に入ってもらった上でより良いものを作りたいと思っています。 去年12月にメインチャンネルで投稿された「映像制作のクリエイティブ人材を募集します」...

【Vol.35】パパYouTuber|ユニークレポート

【Vol.35】パパYouTuber|ユニークレポート

パパYouTuberー ”父親”という存在。家族構成の中でも、柱となりえる立場である。 「どんなことがあっても、家族を守らなければならないと感じるんです。」YouTuberとして活動しながらも一児の父親として生活を送る須藤祥。 彼には、父親としてどんな覚悟を持っているのか。育児や家庭での生活にどんな思いを抱いているのか。今回はそんな一面に迫った。 ー現在の須藤さんの”だいにぐるーぷ”でのお仕事を教えてください。 須藤:サブチャンネルで上がった「須藤に1週間密着してみた」の生活とほぼ変わりなく、サブチャンネルとメンバーシップの動画投稿とかデータ管理的な、割と簡単な部分をやってますね。須藤:あとは総務として、日々大工仕事してます。最近は大工の方が割合が大きいですね。 ーおっしゃっていたサブチャンネルでの”須藤に1週間密着してみた”では、他の方よりもきっちりと時間管理が為されている印象を受けたのですが、やはり育児というものが関わってくるのでしょうか? 須藤:仕事に関してはその日の状況とか前日の状況によって変わってくるんですけど、基本的に家に帰ったりするのは19時半から20時半の間っていうのは決めていますね。 須藤:動画でも映ってたと思うんですけど、お風呂入れに行ったりっていうのがあるので。あといつも8時から8時半ぐらいの間に子供に起こされるんです。須藤:起こされてご飯をあげて、12時まで面倒見て、それからスタジオに行くみたいな。ルーティンみたいなもんなんですけど、帰る時間と出勤する時間は大体同じですね。 須藤が娘をお風呂に入れる様子 ー特に上映会前などは忙しく、そのルーティンも崩れてしまいそうに思うのですが、いかがでしょうか? 須藤:そうですね。上映会前もそうですし、メインの撮影とか、サブの長めの撮影とか泊まりの撮影とかもそうですけど、大体そういう日と前の日とかは、嫁にお願いして、面倒見てもらってますね。 ーそういう時はやはりお子さんのお顔が見たいなって感じるんでしょうか? 須藤:やっぱりそうですね。上映会とかだと、例えば大阪とか名古屋とかって3日間くらい行くじゃないですか。そういう風に3日とか1週間とか経っていくとやっぱり見たいなと思いますね。須藤:でも僕がいない期間とかに、奥さんが写真を送ってきてくれるんですよ。かわいいなと思いながら、無意識に娘の過去の写真を見漁ったりしてますね。 奥さんが上映会中の須藤に送った、おにぎりを食べる娘 ー素敵です。普段は1日の大体の仕事を終えた後、娘さんのために帰宅されると思うのですが、お顔を見れた際の思いなどは何かございますか? 須藤:娘はあともう少しで2歳になるんですけど、まだうまく喋れないんです。うまく喋れなくて、帰る度におかえりとかは言えないけど、「こっちに来てパパ」とか言うんです。 2歳の誕生日を迎えた須藤の娘さん 須藤:だから僕もただいまとか言うんですけど、そういうの見てるとなんか、へっぽこだけど愛おしいなと思って。平和だなとは思いますね。面白いぐらい、愛おしいです。何なんだろうこの子は、みたいな感覚で見ています。 ー父親として3年目となりました。改めてパパになったことで変化したことなどはございますか? 須藤:変わった事としては、煩悩がすごく薄くなったなって思います。物欲とかもあるけど、昔ほどは全くないですし。大きな変化といえばこれですかね。 須藤:僕はお父さんって自覚をするのが遅かったと思うんです。女性の人はお母さんっていう自覚が早いというか、妊娠してからすぐだと思うんですけど、男にとってお父さんっていうのは難しい感じがします。須藤:妊娠をして痛みを知るとかがないので、子供を見てもお父さんっていう自覚をするのが遅かったりするんですよ。僕の中でお父さんって「尽くし続ける」みたいなことだと思ってて。須藤:奥さんのお手伝いとか子供のお手伝いとかはできるんですけど、なんかもっと大切な「お父さん」っていう大きな存在には、最初の頃はなれてなかったなとは思いますね。今は完璧ではないんですけど、徐々に徐々に自覚しています。 産まれたばかりの娘さんにミルクをあげる須藤 ー1番パパとしての自覚が生まれたエピソードなどございますか? 須藤:やっぱりパパって呼ばれることじゃないですかね。子供が教えてくれます。「あなたパパなんだよ」って。それで僕自身も「あ、俺ってパパなんだ」って感じます。 ー最初に”パパ”と呼ばれた際はどんな思いでしたか? 須藤:感情はあんまり表に出せないんですよ。恥ずかしがり屋なんで。 須藤:だから子供が立った時とか1歳を迎えたときとか、心の中では「すごいすごい!おめでとう!」って感動もするんですけど、平常心を保っているように見せちゃうんですよね。 娘さんが初めて立った時の写真 ー微笑ましいエピソードがたくさんあった中で、育児と仕事の両立について、何か感じることはありますか。...

【Vol.35】パパYouTuber|ユニークレポート

パパYouTuberー ”父親”という存在。家族構成の中でも、柱となりえる立場である。 「どんなことがあっても、家族を守らなければならないと感じるんです。」YouTuberとして活動しながらも一児の父親として生活を送る須藤祥。 彼には、父親としてどんな覚悟を持っているのか。育児や家庭での生活にどんな思いを抱いているのか。今回はそんな一面に迫った。 ー現在の須藤さんの”だいにぐるーぷ”でのお仕事を教えてください。 須藤:サブチャンネルで上がった「須藤に1週間密着してみた」の生活とほぼ変わりなく、サブチャンネルとメンバーシップの動画投稿とかデータ管理的な、割と簡単な部分をやってますね。須藤:あとは総務として、日々大工仕事してます。最近は大工の方が割合が大きいですね。 ーおっしゃっていたサブチャンネルでの”須藤に1週間密着してみた”では、他の方よりもきっちりと時間管理が為されている印象を受けたのですが、やはり育児というものが関わってくるのでしょうか? 須藤:仕事に関してはその日の状況とか前日の状況によって変わってくるんですけど、基本的に家に帰ったりするのは19時半から20時半の間っていうのは決めていますね。 須藤:動画でも映ってたと思うんですけど、お風呂入れに行ったりっていうのがあるので。あといつも8時から8時半ぐらいの間に子供に起こされるんです。須藤:起こされてご飯をあげて、12時まで面倒見て、それからスタジオに行くみたいな。ルーティンみたいなもんなんですけど、帰る時間と出勤する時間は大体同じですね。 須藤が娘をお風呂に入れる様子 ー特に上映会前などは忙しく、そのルーティンも崩れてしまいそうに思うのですが、いかがでしょうか? 須藤:そうですね。上映会前もそうですし、メインの撮影とか、サブの長めの撮影とか泊まりの撮影とかもそうですけど、大体そういう日と前の日とかは、嫁にお願いして、面倒見てもらってますね。 ーそういう時はやはりお子さんのお顔が見たいなって感じるんでしょうか? 須藤:やっぱりそうですね。上映会とかだと、例えば大阪とか名古屋とかって3日間くらい行くじゃないですか。そういう風に3日とか1週間とか経っていくとやっぱり見たいなと思いますね。須藤:でも僕がいない期間とかに、奥さんが写真を送ってきてくれるんですよ。かわいいなと思いながら、無意識に娘の過去の写真を見漁ったりしてますね。 奥さんが上映会中の須藤に送った、おにぎりを食べる娘 ー素敵です。普段は1日の大体の仕事を終えた後、娘さんのために帰宅されると思うのですが、お顔を見れた際の思いなどは何かございますか? 須藤:娘はあともう少しで2歳になるんですけど、まだうまく喋れないんです。うまく喋れなくて、帰る度におかえりとかは言えないけど、「こっちに来てパパ」とか言うんです。 2歳の誕生日を迎えた須藤の娘さん 須藤:だから僕もただいまとか言うんですけど、そういうの見てるとなんか、へっぽこだけど愛おしいなと思って。平和だなとは思いますね。面白いぐらい、愛おしいです。何なんだろうこの子は、みたいな感覚で見ています。 ー父親として3年目となりました。改めてパパになったことで変化したことなどはございますか? 須藤:変わった事としては、煩悩がすごく薄くなったなって思います。物欲とかもあるけど、昔ほどは全くないですし。大きな変化といえばこれですかね。 須藤:僕はお父さんって自覚をするのが遅かったと思うんです。女性の人はお母さんっていう自覚が早いというか、妊娠してからすぐだと思うんですけど、男にとってお父さんっていうのは難しい感じがします。須藤:妊娠をして痛みを知るとかがないので、子供を見てもお父さんっていう自覚をするのが遅かったりするんですよ。僕の中でお父さんって「尽くし続ける」みたいなことだと思ってて。須藤:奥さんのお手伝いとか子供のお手伝いとかはできるんですけど、なんかもっと大切な「お父さん」っていう大きな存在には、最初の頃はなれてなかったなとは思いますね。今は完璧ではないんですけど、徐々に徐々に自覚しています。 産まれたばかりの娘さんにミルクをあげる須藤 ー1番パパとしての自覚が生まれたエピソードなどございますか? 須藤:やっぱりパパって呼ばれることじゃないですかね。子供が教えてくれます。「あなたパパなんだよ」って。それで僕自身も「あ、俺ってパパなんだ」って感じます。 ー最初に”パパ”と呼ばれた際はどんな思いでしたか? 須藤:感情はあんまり表に出せないんですよ。恥ずかしがり屋なんで。 須藤:だから子供が立った時とか1歳を迎えたときとか、心の中では「すごいすごい!おめでとう!」って感動もするんですけど、平常心を保っているように見せちゃうんですよね。 娘さんが初めて立った時の写真 ー微笑ましいエピソードがたくさんあった中で、育児と仕事の両立について、何か感じることはありますか。...

【Vol.34】だいに神社|ユニークレポート

【Vol.34】だいに神社|ユニークレポート

新年のお参りー ここはだいに神社。 ここには、「プライベートはもう完全に捨ててました。」と2024年を振り返る者、「早く気づいていたらよかったんですよね…。」と後悔を述べる者、「期待してください。」「スーパースターになります。」と2025年への願いを馳せる者、たくさんの思いが聞こえてきます。 少しだけ、私たちと一緒にその様子を見てみませんか?おっと、早速1人いらっしゃったようです。…なんだか、自信に満ち溢れている方がいらっしゃいましたよ。 参拝者 岩田ー ーようこそお参りいただきました。お名前は? 岩田:岩田涼太です。 ーまずはあなたの2024年の楽しかったこととは? 岩田:1位は圧倒的にお正月に行ったマカオですね。あれを超えるものは正直ないです。あとは、キャンプという趣味に出会えたことですかね。 2024年の年始に行われたマカオでの人生逆転生活 ーそれはどうしてでしょう? 岩田:僕に合ってる趣味というか。デジタルデトックスもできるので、人生を通じた趣味に出会えました。何と言っても僕の2024年は、キャンプで始まったと言っても過言ではなくて。 岩田:キャンプをしたいから車を買って、車を置きたいから一人暮らしを始めて、みたいな感じなんです。2025年以降もキャンプは欠かせない趣味になりそうです。 サブチャンネルで配信されたキャンプの様子 ー2024年での活動を振り返るといかがでしたか? 岩田:その土地にいるファンの顔を思い浮かべるようになりました。上映会とアフターパーティに行く時とかは同窓会に行く先生みたいな気持ちになりましたね(笑)。 岩田:別に普段から気にしてるわけじゃないけれど、例えば福岡行くってなった時にあいつ元気にしてんのかな、って福岡にいるみんなのことを思い出したりとか。お客さんというよりなんか教え子みたいな感覚になりましたね。 PEDRO1週間逃亡生活の先行上映会での様子 岩田:2024年の初めての”メンバーシップ感謝祭”で1人だった子も、後半になるにつれて友達ができたりしてるのを見てそういうのも嬉しいと思いましたね。”海賊サバイバル”のアフターパーティなんてみんなボッチで大変でしたから(笑)。 ー2025年への意気込みはございますか? 岩田:プライベートで言うと、『岩田軍団』を作りたいです。芸人とかでもあるじゃないですか。後輩を引き連れて『◯◯軍団』みたいなものです。 岩田:とにかく後輩が欲しいですね。それこそキャンプに気軽に誘えるとか、どこか行く時に誘いやすい存在が欲しいです。 ーどうやって軍団員を集めるおつもりで? 岩田:岩田軍団のオーディションとかも動画でやっても面白いなって思っています。週休2日制を導入するつもりなので、その休みで軍団の後輩と出かけたり、仕事と休みのメリハリをつけていきたいですね。 ーその他にはございますか? 岩田:あとはスタジオの引越しも考えていて、それを探すのが楽しくてたまらないです。現状は未定ですが、今のスタジオはAirbnbとかにしてもいいかなって思っています。もしスタジオに泊まれたりとかだったら、加藤にもクルーのみんなにとってもWin-Winじゃないですか。 岩田:でもスタジオはめちゃくちゃ汚いのでリピートは0の自信あります(笑)。とにかく、期待しておいてください。 スタジオの様子 本年の岩田さんの活躍を祈願するとともに期待を込めてお送りいたします。どうぞ、お気をつけて。 参拝者 土井谷ー...

【Vol.34】だいに神社|ユニークレポート

新年のお参りー ここはだいに神社。 ここには、「プライベートはもう完全に捨ててました。」と2024年を振り返る者、「早く気づいていたらよかったんですよね…。」と後悔を述べる者、「期待してください。」「スーパースターになります。」と2025年への願いを馳せる者、たくさんの思いが聞こえてきます。 少しだけ、私たちと一緒にその様子を見てみませんか?おっと、早速1人いらっしゃったようです。…なんだか、自信に満ち溢れている方がいらっしゃいましたよ。 参拝者 岩田ー ーようこそお参りいただきました。お名前は? 岩田:岩田涼太です。 ーまずはあなたの2024年の楽しかったこととは? 岩田:1位は圧倒的にお正月に行ったマカオですね。あれを超えるものは正直ないです。あとは、キャンプという趣味に出会えたことですかね。 2024年の年始に行われたマカオでの人生逆転生活 ーそれはどうしてでしょう? 岩田:僕に合ってる趣味というか。デジタルデトックスもできるので、人生を通じた趣味に出会えました。何と言っても僕の2024年は、キャンプで始まったと言っても過言ではなくて。 岩田:キャンプをしたいから車を買って、車を置きたいから一人暮らしを始めて、みたいな感じなんです。2025年以降もキャンプは欠かせない趣味になりそうです。 サブチャンネルで配信されたキャンプの様子 ー2024年での活動を振り返るといかがでしたか? 岩田:その土地にいるファンの顔を思い浮かべるようになりました。上映会とアフターパーティに行く時とかは同窓会に行く先生みたいな気持ちになりましたね(笑)。 岩田:別に普段から気にしてるわけじゃないけれど、例えば福岡行くってなった時にあいつ元気にしてんのかな、って福岡にいるみんなのことを思い出したりとか。お客さんというよりなんか教え子みたいな感覚になりましたね。 PEDRO1週間逃亡生活の先行上映会での様子 岩田:2024年の初めての”メンバーシップ感謝祭”で1人だった子も、後半になるにつれて友達ができたりしてるのを見てそういうのも嬉しいと思いましたね。”海賊サバイバル”のアフターパーティなんてみんなボッチで大変でしたから(笑)。 ー2025年への意気込みはございますか? 岩田:プライベートで言うと、『岩田軍団』を作りたいです。芸人とかでもあるじゃないですか。後輩を引き連れて『◯◯軍団』みたいなものです。 岩田:とにかく後輩が欲しいですね。それこそキャンプに気軽に誘えるとか、どこか行く時に誘いやすい存在が欲しいです。 ーどうやって軍団員を集めるおつもりで? 岩田:岩田軍団のオーディションとかも動画でやっても面白いなって思っています。週休2日制を導入するつもりなので、その休みで軍団の後輩と出かけたり、仕事と休みのメリハリをつけていきたいですね。 ーその他にはございますか? 岩田:あとはスタジオの引越しも考えていて、それを探すのが楽しくてたまらないです。現状は未定ですが、今のスタジオはAirbnbとかにしてもいいかなって思っています。もしスタジオに泊まれたりとかだったら、加藤にもクルーのみんなにとってもWin-Winじゃないですか。 岩田:でもスタジオはめちゃくちゃ汚いのでリピートは0の自信あります(笑)。とにかく、期待しておいてください。 スタジオの様子 本年の岩田さんの活躍を祈願するとともに期待を込めてお送りいたします。どうぞ、お気をつけて。 参拝者 土井谷ー...

【Vol.33】カメラマンから見たPEDRO1週間逃亡生活|関係者レポート

【Vol.33】カメラマンから見たPEDRO1週間逃亡生活|関係者レポート

撮影の裏側ー 2024年9月、だいにぐるーぷは『PEDRO1週間逃亡生活』の企画において、日本全国を逃げ回った果てに、アユニ・Dに3年前のリベンジを許した。 この1週間に渡る激闘の記録は、だいにぐるーぷの公式YouTubeチャンネルにて配信中である。しかしながら、2時間越えの本編に使用されているのは、7日間の撮影期間でのごく僅かな出来事だ。つまるところ、本拠地・千葉を飛び出し、新しい街を訪ねたメンバーが見せた“顔”を知っている者は、ほとんどいない。そう、カメラマンを除いて…。 今回は、本撮影において、5人の男たちに同行したカメラマンが登場する。1週間という時間を共有した彼らが語る、だいにぐるーぷとは。 カメラマンから見ただいにぐるーぷー 奈良 遼太郎(担当:飯野太一) 奈良 遼太郎(正面左側の人物) “気遣いの鬼”という異名を取るカメラマン。今回が初参加となった中、その社交的な能力を遺憾無く発揮し、メンバー随一の“ミステリアスな男”こと飯野を懐柔したとして、ファン界隈で一躍話題となった。 ー今回の撮影で大変だったこと、気を付けていたことを教えてください! 初参加ということだったので、今までのクルーメンバーとは別の視点、新しい風を吹かせられるように、撮影時も距離感を大切にしていました。また、いつ何が起きるかわからない、台本のないクルーだったので、1週間分の着替えと、機材を持っての全力ダッシュはフィジカルが試されました。 ー撮影期間中の印象的なエピソードはありますか? 同行したメンバーの色々な二面性を見れてステキでした。とにかく時間があれば一服していた飯野さん、名古屋2日目朝からホテルにGoProを置き忘れた飯野さん、そして2日目の闇夜に消えていった飯野さん等々…。 ー撮影期間中の休戦時間の過ごし方を教えてください! 飯野さんと飲んだ、名古屋の朝コーヒー美味しかったっす(その後忘れ物してたけど)。沖縄夜の打ち上げは、みんないろんな肩の荷が降りて、ざっくばらんに話し合えた最高の男飲みの時間でした。 確保された当日に沖縄で行われた撮影の打ち上げ ーカメラ越しに見る『だいにぐるーぷ』は、どのように映りましたか。 撮りたい、と思わせてくれる人たち。ピークはこの辺りかな、というところから一踏ん張りできたり、要所要所で手詰まりそうなときも、そこからメンバーそれぞれの個性が発揮されて予想できない結末になったりと、仕事を忘れて、その瞬間瞬間を収めたいと思わせてくれる不思議な力のある人たちの集まりでした。ビデオを片手に、手持ちのカメラで自然とシャッター回数が増えていってしまう不思議な魅力のあるチームでしたね。一部のヘビースモーカーと、ドランカーが心配ですが、カッコいい背中を持つ人たちなのは違いありません。 佐川 拓(担当:土井谷誠一) 以前からだいにぐるーぷと関わりがあった他、今は亡き "いせぶた(異星人と囚われた雌豚)”を支えた功労者でもあり、ファンにもお馴染みのカメラマンだ。 ー今回の撮影で大変だったこと、気を付けていたことを教えてください! 初日は無一文ということもあって、寝泊まり用の荷物とカメラを抱えてひたすらに歩いたことが、身体に応えました。逆に言うと、2日目以降は交通機関の移動があったので、比較的楽でした(笑)。 あとは、どこまで口を出していいのかという部分でも悩みました。あくまでも、メンバーvsアユニDさんの企画なので口を出してしまうと企画としてどうなのかなと。 ー撮影期間中の印象的なエピソードはありますか? 1週間通してですと、Xでのファンの皆さんの居場所特定がとてもすごいなと思いました。ほんの一部分の映り込んだ情報のみで、正確な位置やお店を特定する探偵並みの力は、正直だいにのファンはなかなか気持ち悪いなと思いました(笑)。それから、2日目の福岡で泊まったホテルが囚人部屋みたいなところで、あそこのベッドがかなり固くて、翌朝をバキバキな体で迎えました…。 アユニ・Dもこたえた福岡の貧乏宿 ー撮影期間中の休戦時間の過ごし方を教えてください!...

【Vol.33】カメラマンから見たPEDRO1週間逃亡生活|関係者レポート

撮影の裏側ー 2024年9月、だいにぐるーぷは『PEDRO1週間逃亡生活』の企画において、日本全国を逃げ回った果てに、アユニ・Dに3年前のリベンジを許した。 この1週間に渡る激闘の記録は、だいにぐるーぷの公式YouTubeチャンネルにて配信中である。しかしながら、2時間越えの本編に使用されているのは、7日間の撮影期間でのごく僅かな出来事だ。つまるところ、本拠地・千葉を飛び出し、新しい街を訪ねたメンバーが見せた“顔”を知っている者は、ほとんどいない。そう、カメラマンを除いて…。 今回は、本撮影において、5人の男たちに同行したカメラマンが登場する。1週間という時間を共有した彼らが語る、だいにぐるーぷとは。 カメラマンから見ただいにぐるーぷー 奈良 遼太郎(担当:飯野太一) 奈良 遼太郎(正面左側の人物) “気遣いの鬼”という異名を取るカメラマン。今回が初参加となった中、その社交的な能力を遺憾無く発揮し、メンバー随一の“ミステリアスな男”こと飯野を懐柔したとして、ファン界隈で一躍話題となった。 ー今回の撮影で大変だったこと、気を付けていたことを教えてください! 初参加ということだったので、今までのクルーメンバーとは別の視点、新しい風を吹かせられるように、撮影時も距離感を大切にしていました。また、いつ何が起きるかわからない、台本のないクルーだったので、1週間分の着替えと、機材を持っての全力ダッシュはフィジカルが試されました。 ー撮影期間中の印象的なエピソードはありますか? 同行したメンバーの色々な二面性を見れてステキでした。とにかく時間があれば一服していた飯野さん、名古屋2日目朝からホテルにGoProを置き忘れた飯野さん、そして2日目の闇夜に消えていった飯野さん等々…。 ー撮影期間中の休戦時間の過ごし方を教えてください! 飯野さんと飲んだ、名古屋の朝コーヒー美味しかったっす(その後忘れ物してたけど)。沖縄夜の打ち上げは、みんないろんな肩の荷が降りて、ざっくばらんに話し合えた最高の男飲みの時間でした。 確保された当日に沖縄で行われた撮影の打ち上げ ーカメラ越しに見る『だいにぐるーぷ』は、どのように映りましたか。 撮りたい、と思わせてくれる人たち。ピークはこの辺りかな、というところから一踏ん張りできたり、要所要所で手詰まりそうなときも、そこからメンバーそれぞれの個性が発揮されて予想できない結末になったりと、仕事を忘れて、その瞬間瞬間を収めたいと思わせてくれる不思議な力のある人たちの集まりでした。ビデオを片手に、手持ちのカメラで自然とシャッター回数が増えていってしまう不思議な魅力のあるチームでしたね。一部のヘビースモーカーと、ドランカーが心配ですが、カッコいい背中を持つ人たちなのは違いありません。 佐川 拓(担当:土井谷誠一) 以前からだいにぐるーぷと関わりがあった他、今は亡き "いせぶた(異星人と囚われた雌豚)”を支えた功労者でもあり、ファンにもお馴染みのカメラマンだ。 ー今回の撮影で大変だったこと、気を付けていたことを教えてください! 初日は無一文ということもあって、寝泊まり用の荷物とカメラを抱えてひたすらに歩いたことが、身体に応えました。逆に言うと、2日目以降は交通機関の移動があったので、比較的楽でした(笑)。 あとは、どこまで口を出していいのかという部分でも悩みました。あくまでも、メンバーvsアユニDさんの企画なので口を出してしまうと企画としてどうなのかなと。 ー撮影期間中の印象的なエピソードはありますか? 1週間通してですと、Xでのファンの皆さんの居場所特定がとてもすごいなと思いました。ほんの一部分の映り込んだ情報のみで、正確な位置やお店を特定する探偵並みの力は、正直だいにのファンはなかなか気持ち悪いなと思いました(笑)。それから、2日目の福岡で泊まったホテルが囚人部屋みたいなところで、あそこのベッドがかなり固くて、翌朝をバキバキな体で迎えました…。 アユニ・Dもこたえた福岡の貧乏宿 ー撮影期間中の休戦時間の過ごし方を教えてください!...